海外アニメ祭の開幕まで、あと四分。
送信卓の一番上で、イトの応援動画が青く光っていた。
一度だけの上映枠 イトの応援動画 次に、ライブ字幕
イトは四十二秒の動画を、三日かけて作った。
大好きな作品が海の向こうで十周年を迎える。選ばれた動画は、現地の制作者と世界の観客が見る大画面に一度だけ流れる。
画面の中のイトは、何度も撮り直した最初の一言で止まっていた。
「やっと、届く」
そのとき、床の下から低い警報音が鳴った。
世界地図を横切る一番短い青線が、陸揚局の先で赤く変わった。
海外アニメ祭までの道は、海へ下りた
イトの動画は、画面から直接海外へ飛ぶわけではない。
ラボのネットワークを出て、国内の回線を進み、海辺の陸揚局へ向かう。
陸揚局は、陸上のネットワークと海底ケーブルをつなぐlanding stationだ。
そこから海の下を通り、海外側のlanding stationへ上がり、アニメ祭のサーバーへ届く。
画面では一本の矢印にしか見えない。
けれど、その下には、港、建物、ケーブル、海底、反対側の岸がある。
ITUは、海底通信ケーブルが国際データ交換の99%以上を運ぶと説明している。
数字の割合は時点や数え方で扱いに注意がいる。ここで確かめたいのは、海外通信が「空にあるクラウド」だけで完結せず、海底の物理的な道に大きく支えられていることだ。
イト
この動画も、海の底を通るんだ
ピコ
うん。画面から見えなくても、海外へ続く通信には海へ下りる道がある
ユイ
その入口が、地図で赤くなった陸揚局ですね
開幕まで、あと三分十六秒。
一番近いケーブルが、返事をやめた
マコトが、赤い線の往復時計を見た。
送った確認の光が戻ってこない。
「直通経路から応答がない。いったん送信を止める」
赤い遮断板が下りた。
この時点では、海底ケーブルのどこかが切れたと決まったわけではない。
陸揚局の装置、陸上区間、海中区間、相手側の設備。確認する場所はいくつもある。
ITUが挙げる海底ケーブルのリスクにも、自然災害、老朽化、漁業や投錨のような人間活動がある。けれど、一般的なリスク一覧だけで、目の前の警報の原因を決めてはいけない。
今わかるのは、一番近い経路へデータを流し続けられないことだけだった。
送信卓では、イトの大きな動画ファイルの後ろに、小さな字幕パケットが次々と並んでいる。
海外会場から来る音声を日本語字幕へ変え、視聴画面へ返すためのパケットだ。
字幕も、赤い線の手前で止まった。
別の海へ回せても、同じ速さではない
ピコが世界地図を広げた。
赤い直通経路より南に、もう一本の青線がある。
別の陸揚局へ向かい、違う海底ケーブルを通り、遠くの中継点を回ってアニメ祭へ着く道だ。
ただし、青線の横では混雑計が黄色く点滅していた。
この時間、その経路を使っている通信が多い。
地理的に異なる経路を持つことは、一本の障害がすべてへ同じように及ぶリスクを減らせる。ITUの海底ケーブルresilience(回復力)報告も、接続経路の地理的な多様性を主要な論点にしている。
けれど、別経路があることと、何も変わらず届くことは同じではない。
遠回りや混雑で、レイテンシが増えることがある。
利用できる別経路がない場所もある。経路の切替方法も、ネットワークやサービスの設計によって違う。
今回のラボ送信卓は、先頭の大きなファイルを送ってから、後ろの字幕パケットを流す単純な待ち行列だった。
実際のインターネット全体が、いつも一つのファイルをこの順で待つわけではない。これは一つのイベント用ネットワークを見える形にしたフィクションだ。
イトが選べる三つの道
開幕まで、あと一分五十二秒。
ピコが、三枚の経路札を置いた。
- 直るまで待つ
- 動画を先に送る
- 動画を降ろす
一枚目なら、短い直通経路が戻る可能性に賭けられる。戻らなければ、動画も字幕も開幕に間に合わない。
二枚目なら、混んだ迂回路へイトの大きな動画を先に入れる。上映枠へ届くかもしれないが、その後ろでライブ字幕が待つ。
三枚目なら、動画を送信待ちから外し、小さな字幕パケットを先に迂回路へ流せる。
イトは試写画面を再生した。
画面の中の自分が、海外の制作者へ笑いかける。
この枠を逃せば、アニメ祭で流れることはない。
後ろのモニターでは、字幕のないライブ映像が進んでいた。
イトは、自分の動画を送信待ちから外した
開幕まで、あと一分二十一秒。
イトは、応援動画の青い札をつかんだ。
「僕の動画を降ろす」
札を送信待ちの列から引き抜く。
次に、南の青い迂回経路を自分の手で選んだ。
赤い直通経路の遮断板には触れない。
原因を確認できていない道を、自分の上映枠のために開け直さなかった。
送信卓の先頭へ、字幕パケットが並ぶ。
イトが青い送信レバーを倒した。
小さな光が、国内の道から南の陸揚局へ曲がった。

海へ下り、赤い線とは違う海底ケーブルへ入っていく。
海底ケーブルの中心では、データを運ぶ光が光ファイバーを進む。ITU-T G.978は、海底ケーブルが光ファイバーを水圧や浸水などから守るよう設計されることを示している。
細いファイバーの外には、海の環境から通信路を守る層がある。
ただし、保護されたケーブルも故障しないわけではない。
字幕は、遠回りして戻った
青い光が、遠い中継点を曲がった。
往復時計の針は、直通経路の目盛りを越える。
一度、字幕が映像に遅れた。
二度目の文は、最後まで届いた。
海外の制作者が話す。
少し遅れて、日本語字幕が灯る。
海の向こうのみんな、見えているよ。
会場の映像が続いた。
字幕も止まらず、短い遅れを抱えたまま追いかけた。
赤い直通経路は、最後まで赤い。
青い迂回経路は、南へ大きく膨らんでいる。
通信は戻った。
同じ道、同じ速さでは戻らなかった。
送られなかった四十二秒
アニメ祭の動画受付が閉じた。
イトの応援動画は、海外会場で流れなかった。
送信卓の端末内にある保管庫には、未送信の印がついたまま残っている。
消えたわけではない。
けれど、一度きりの大画面へ届く機会は消えた。
マコトは赤い経路の調査札を残した。原因が分かるまで、遮断板は上げない。
ユイは、遅れて届く字幕の時刻を記録した。迂回できたから問題なし、とは書かなかった。
別の海底ケーブルへ回せる構成でも、止まらない、遅れないとは限らない。
最後に、海外の制作者がカメラへ手を振った。
字幕が、少し遅れて届く。
送ってくれたみんな、ありがとう。
暗い送信卓で、上映されなかった動画のサムネイルだけがイトの顔を照らした。
イトは再生ボタンを押さず、赤と青に分かれた海の地図を見た。
次回:海の底で、光はなぜ逃げない?
アニメ祭が終わったあと、青い迂回経路から一本の透明なファイバーが届いた。
外側の保護層を外すと、その中心は驚くほど細い。
ピコが小さな光を端から入れた。
光は、透明な道の中で向きを変えながら、反対側まで進んだ。
「海を越える光は、どうして外へ逃げないんだろう」
次回、ピコルート第35話。
光ファイバーの中を、光はどう進む?
海の下のインターネットを図で確かめる
物語で見たlanding station、海底ケーブル、別経路の考え方を整理するなら、海底ケーブルとはで海を越える通信の全体図を確かめられます。

