十回目の緑の灯がついた。
生成された朝の街で、小さな作業ロボットP-R01が青い倉庫まで箱を運び終える。
曲がり角は一つ。道は乾いている。人も自転車もいない。
画面いっぱいに、金色の完了印が浮かんだ。
この街で、十回中十回成功。
「百点だ」
イトは両手を上げた。
ガラスの向こうには、ラボの実機試験区画がある。同じ形の道、同じ青い倉庫、同じP-R01。七分後には見学者の前で、仮想の街で覚えた運び方を現実の道へ移す予定だった。
イト
これなら実演できるよ。仮想の街で一度も失敗してないんだから
ユイ
一度も失敗していないのは、この朝の街では、ですね
ピコ
歩くと続きが作られ、行動すると次の景色が変わる。これが、このラボのワールドモデルだよ
文章や画像をきっかけに、操作できる仮想世界を作るワールドモデルの研究は、すでに行動で次の場面が変わる生成環境まで進んでいる。
ただし、この物語の街とP-R01は未来を考えるためのフィクションだ。現在の特定製品が、現実の施設をそのまま再現し、安全な実機訓練まで保証するという話ではない。
見学者の入場まで、あと七分。
イトは、金色の完了印を実機側へ送るレバーに手をかけた。
夕方にしただけで、百点が消えた
「その前に、一つだけ」
ユイは時刻のつまみを、朝から夕方へ動かした。
建物の形も、倉庫の場所も変わらない。
変わったのは、街灯の影の向きだった。
P-R01が走り出す。
最初の角で曲がらない。
道を外れ、長く伸びた影を追って、閉じた門の前で止まった。
イトの手が、実機へ送るレバーから離れた。
イト
道を覚えたんじゃなかったの?
ユイ
朝は、曲がり角と影がいつも同じ場所にありました。P-R01には、影を追えば百点が取れたのかもしれません
マコト
現実の試験区画には、同じ影を用意できない。見ていない条件で止まれるまでは、あのゲートは開けないよ
一つのシミュレーションだけで覚えた仕組みは、その世界だけにある手がかりを近道にすることがある。Googleのロボット研究でも、現実とシミュレーションの視覚・物理の差だけでなく、学習器がシミュレーターの癖を利用して成功してしまう問題が説明されている。
画面の端では、金色の完了印がまだ光っていた。
朝へ戻せば、百点の街も戻る。
見学者の入場まで、あと五分。
イトが選べる三つの道
机の上に、三枚の札が並んだ。
- 百点の街へ戻す
- 実演だけ延ばす
- 街の条件を壊す
一枚目なら、予定どおり百点の画面を見せられる。ただし、影を追う近道は隠れたままだ。
二枚目なら、今日の失敗は見せずに済む。ただし、何を直すべきか分からないまま日付だけが変わる。
三枚目なら、雨、夜、違う箱、滑る床、遅れるセンサーを入れて、イトの作った街そのものを崩す。百点は残らない。
イトは、金色の完了印を見た。
昨日から何度もやり直し、やっとついた灯だった。
それを画面から外し、机の上へ伏せた。
「街の条件を壊す」
イトは三枚目の札を選び、自分の手で試験用の大きなダイヤルを回した。

失敗を増やす試験
朝が夕方になる。
乾いた石畳に雨が降る。
白い箱が黒い箱になり、軽かった荷物が重くなる。
曲がり角の街灯が消え、カメラには小さなノイズが入り、操作の返事が少し遅れる。
摩擦、遅れ、センサーのノイズなどをシミュレーションごとに変える手法は、ロボットのSim-to-Real研究でドメインランダム化やダイナミクスランダム化として使われてきた。
条件を増やせば、それだけで現実の安全が保証されるわけではない。どの範囲を変えたか、見せていない条件でどう動くか、実機で何が違うかは、別に確かめなければならない。
最初の雨の街で、P-R01は曲がれなかった。
二つ目の夜の街では、黒い箱を見落とし、手前の安全線で止まった。
三つ目の街では、濡れた床で停止位置を越えかけた。
ユイの手は非常停止の上にある。
けれど、赤い安全線へ車輪が触れる前に、イトが設定した試験停止の灯がついた。
P-R01は止まった。
箱は、倉庫へ届かなかった。
ピコ
百点の街は消えたね
イト
うん。でも、影と箱と止まる距離。朝の街が隠していた三つを見つけた
ユイ
失敗の数だけでなく、どの条件で、どこまで進み、なぜ止めたかを残しましょう
見学者の入場まで、あと一分。
イトは、実機ゲートを開けなかった
ガラスの向こうで、現実のP-R01が待っている。
実演開始の緑の鍵は、イトの手元にあった。
雨の街で失敗したのは、仮想のP-R01だ。現実側を一度だけ走らせ、うまくいけば実演に間に合うかもしれない。
イトは鍵を持ち上げた。
そのまま、マコトへ返した。
イト
今日は走らせない。百点を見せる実演は中止にする
マコト
分かった。見学者には、成功した街と、止めた三つの条件を両方見てもらおう
イト
完成したロボットじゃなくて、現実へ出す前の試験として見せたい
実機ゲートの灯は、赤いまま変わらなかった。
見学者が来ると、青い倉庫の前に箱はなかった。
代わりに画面には、朝の成功した道と、雨、夜、重い箱で途切れた三本の道が並んだ。
イトは百点の完了印を、裏返したまま説明した。
成功した世界は、消していない。
失敗した世界も、消さなかった。
閉じたゲートの前に残ったもの
見学が終わっても、実機ゲートは閉じていた。
P-R01が運ぶはずだった箱は、出発線の内側にある。
金色の完了印は伏せられ、その隣には新しい三枚の失敗記録が増えた。
イトは観測ノートの「完成」に引いた丸を消した。
代わりに、「次に壊す条件」と書く。
百点はなくなった。
けれど、現実へ出る前に止まれた場所だけが、赤い三つの灯になって残った。
次回:答えを作りすぎる研究所
片づけを始めると、生成街の奥から紙の束が流れてきた。
雨に強い車輪。影を使わないカメラ。滑りにくい床。別の道。
たった三つの失敗に対して、直し方の候補が百枚ある。
「作れるのは分かった。でも、どれが本当に直る答えなんだろう」
イトが一枚を取ると、残り九十九枚が机から落ちた。
次回、ピコルート第108話。
AIが作った仮説は、いつ発見になる?

